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コロニアルハイツ()は、アメリカ合衆国バージニア州南東部に位置する独立市である。2010年国勢調査での人口は17,411人だった〔. U.S. Census 2010 Retrieved March 14, 2011〕〔. Weldon Cooper Center 2010 Census Count Retrieved September 8, 2011〕。アメリカ合衆国商務省経済分析局は統計上の目的でコロニアルハイツ市とピーターズバーグ市、ディンウィディ郡を1つにしている。リッチモンド・ピーターズバーグ地域の中のピーターズバーグ市を中心とするトリシティーズ地域にあり、都市圏としてはリッチモンド大都市圏に属している。 == 歴史 == 1607年5月14日、イングランド人開拓者がジェームズタウンに到着したとき、バージニアの東部大半と同様に、コロニアルハイツ市となった地域は、ポウハタン酋長を頭にタナコマカと呼ばれるアルゴンキン語族インディアンの連邦が支配する地域に入っていた。ジョン・スミス船長の描いた初期バージニアの地図は、現在のコロニアルハイツの位置に、ウェロアンス(酋長)コクォナスムとその妹オパソクィオナスキの指導するアパマタック準部族の主要町があったことを示している。1622年と1644年にインディアンによる襲撃が起きた後、インディアンはイングランドの属国となり、近くのエトリックとその対岸のフォートヘンリー(現在のピーターズバーグ市内)に移転させられた。 1619年、バージニア植民地にロンドン会社が作った4つの大きな「ボロ」の1つにヘンライコシティがあり、その中に現在のコロニアルハイツがあった。イングランド人がこの地域に入ったのは1620年だった。少数の集団が開けた土地を探してアポマトックス川を遡り、スウィフト・クリークがアポマトックス川に合流する地点に入り、そこをコンジュラーズ・ネックと名付けた(コンジュラーは魔法使い)。この合流点には以前にインディアンの治療師(コンジュラーと呼ばれた)が住んでおり、水に向かってまじないの言葉を投げていたと考えられた。 それから間もなく、チャールズ・マグナーが広さ650エーカー (2.6 km2) の土地に地域初の登記を行い、それをプランテーションに発展させた後、1634年には売却した。同年、イングランド王チャールズ1世の命令で、バージニア植民地議会がバージニア植民地を最初の8つのシャイアに分け、その内の1つがヘンライコ郡となり、そこに後のコロニアルハイツが含まれた。 1635年、イングランド人は「オールドタウン」・クリークの近くに「アパマタックス」と呼ぶ小さな町を造った〔Friends of Lower Appomattox River (FOLAR) Newsletter, 2006 〕。それは現在のテンプル・アベニューとディモック・パークウェイ交差点近くにあったと考えられている〔Progress Index article, May 13, 2007 〕。また同年に、ヘンリー・フリート船長とフランシス・ポイスレスが現在のコロニアルハイツ市の西、「フリーツヒル」に小さな砦を建設した。ここは現在バージニア州立大学キャンパスになっている。 1677年から1685年、オールド・ブリック・ハウスという建物の建設で地域の歴史的な建造物が作られた。リチャード・ケノンは1670年以前にバージニアに来ており、バミューダ・ハンドレッドの商人になった。バージニア植民地議会ではヘンライコ郡の代議員になった。その息子リチャード・ケノン・ジュニアも植民地議会議員となり、移民のロバート・ボーリング大佐とその二番目の妻アン・スティスの娘と結婚した。リチャードの妹メアリー・ケノンは、リチャードの妻の異腹兄弟ジョン・フェアファックス・ボーリング少佐と結婚した。ボーリング少佐はロバート・ボーリング大佐と最初の妻ジェーン・ロルフの息子だった。ジェーン・ロルフは、初期植民者ジョン・ロルフとインディアンの妻ポカホンタスの孫だった。ボーリング家はポイント・オブ・ロックスに近いチェスターフィールド東部にあったプランテーション、コブスに住んでいた。 リチャード・ケノンが建てた屋敷は後に「ブリック・ハウス」と呼ばれ、コロニアルハイツでは最古の恒久的建造物と考えられている。1879年に起こった火事でも1つの壁が残り、残り部分は再建された〔〕。 1749年、植民地議会によってジェームズ川より南の地域がヘンライコ郡より分離し、チェスターフィールド郡と名付けられた。コロニアルハイツとなった地域は1948年まで約200年間、チェスターフィールド郡に属することになった。 「コロニアルハイツ」という名前はアメリカ独立戦争の時に起きた事件から来ている。1781年5月、「コロニエル」と呼ばれたラファイエット侯爵のフランス軍が、リッチモンドから南に進軍し、アポマトックス川越しにピーターズバーグを見下ろす高台に大砲を据えた。その場所が後に「コロニアルハイツ」と呼ばれるようになり、1906年にはオークヒルの小区画にその名前が与えられた。 キャロル・アベニュー沿いにある歴史的な場所オークヒルは、アーチャーズヒル、ヘクターズヒル、ダンズヒルとも呼ばれ、平屋で雨戸のある建物2棟が、通りまで屋根の無い部分から伸びる深い内ポーチで繋がれている。この家の芝生から、1781年5月にラファイエット侯爵が、現在も丘を取り巻く柘植の木の垣根越しに据えた大砲で、ピーターズバーグに向かって砲撃し、その後ウィリアム・フィリップス少将の指揮するイギリス軍に占領された。フィリップスはこの砲撃の間にチフスで死んだ。 この地域は南北戦争でも作戦に巻き込まれた。1864年のピーターズバーグ包囲戦のとき、ロバート・E・リー将軍が6月から9月までバイオレット・バンクにその作戦本部を据えた。 1926年、コロニアルハイツはチェスターフィールド郡の法人化町になった。1948年には都市として法人化された。バージニア州法に従い、郡とは分離して独立市となった。現在の憲章は1960年に認められたものである。1960年から1970年、その人口は9,587人から15,097人と急速な成長を遂げた。 1980年代半ば、州道144号線(テンプル・アベニュー接続路)とアポマトックス川に架かる新橋が完成したことで、フォートリー近くでの州道36号線へのアクセスができた。この新道と橋によって、市内南東端に沿って孤立していた大きな地域に商業開発の道が開けた。そこにサウスパーク・モールと多くの小売店、また事務所が建設された。 1993年、8月6日、藤田スケールF4の竜巻(最大風速207-260マイル/時、92-116 m/秒)がコロニアルハイツを通過した。このためにサウスパーク・モールに大きな被害を与え、ウォールマート店舗の屋根が崩壊した(ウォールマートは現在サムズ・クラブになっている)。ピーターズバーグ市やホープウェル市でも大きな被害が出た。トリシティーズ地域で、死者4人(ウォールマートで3人、プリンスジョージで1人)、負傷者246人を出し、被害総額は5,000万米ドルと推計された。 2008年4月28日、改良藤田スケールEF1の竜巻(最大風速86-110マイル/時、38-49 m/秒)が不連続ながら2マイル (3 km) 近くにわたってコロニアルハイツを通過した。最初はコロニアルハイツ中学校フットボール場近くで始まり、そのクラブハウスの屋根を損傷し、続いてメダリオン・プールから州間高速道路95号線まで屋根を吹き飛ばした。その後95号線を飛び越え、ディモック・スクエア・ショッピングセンターで再度始まった。自動車数台が飛ばされて商店街の駐車場に積み重ねられ、商店街の屋根も大きく損傷した。そこは1993年のF4竜巻によって破壊されたウォールマートの場所から10分の1マイル (160 m) も離れていなかった。この竜巻は続いてテンプル・アベニューを越えて移動し続け、ファイン・ドライブとパドルドック道路(プリンスジョージ郡内)近くの街並みで木や屋根に被害を与えた後に消失した。この竜巻で21人が負傷し、被害総額は1,000万米ドルと推計された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コロニアルハイツ (バージニア州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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